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フィギュアスケーターの浅田真央さんを応援するブログ
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【伊藤、佐藤、荒川、安藤、そして浅田。世界選手権を彩った女王たちの系譜。】



 フィギュアスケートの世界選手権は長い間、シーズンを締めくくる大会として選手たちの目標となってきた舞台である。

 女子は1906年に第1回大会が行なわれ、戦争などでの中断を挟み、これまでに93回を数える。そのときどきに時代を彩るチャンピオンが現れ、数々の名場面が生まれた。

 その歴史の中に、5名の日本の選手の名前も刻まれている。

 日本初のチャンピオンが誕生したのは'89年、パリ大会のことだった。

 伊藤みどりは傑出したジャンプ力を武器に、小学5年生で出場した'80年の全日本選手権で3位になるなど「天才少女」と呼ばれた。その後、ときに故障に苦しみながらも階段をのぼっていった伊藤は'88年11月、愛知県での大会で競技会では女子世界初のトリプルアクセルに成功。そのシーズンの締めくくりとして5度目の世界選手権に挑んだ。

 圧巻はフリーの演技だった。着氷で乱れたもののトリプルアクセルを決めたほか、6種類の3回転ジャンプに成功。さらにスピンなどでも切れを見せつけ、優勝を果たした。9名のジャッジのうち5名が技術点で6.0の満点を出したことも特筆される。

【小塚崇彦をフィギュアへ駆り立てた、佐藤有香の演技。】

 '94年、千葉で行なわれた大会で優勝したのが佐藤有香である。佐藤信夫、久美子夫妻の娘であり、現在は振付け師、コーチとして活躍している。

 予選、ショートプログラムで1位の佐藤は、フリーでもジャンプで一つミスはあったものの、他のジャンプは成功。何よりも終盤のストレートラインステップにも表れていた、滑らかなスケーティングと溌剌とした演技に、場内が沸いた。

 佐藤の演技を観戦していた小塚崇彦が、その様子を見てフィギュアスケートに本格的に取り組む決意をしたのも有名な話だ。そして佐藤は、世界選手権優勝という肩書きとともにプロに転向。数々のアイスショーで活動するきっかけとなった。

 その10年後の'04年、ドルトムントで行なわれた大会で、3人目のチャンピオンが生まれた。それが荒川静香だった。

 ショートプログラム2位で迎えたフリーの「トゥーランドット」は、まさに圧巻としか言いようがない滑りであった。技術点で満点をつけるジャッジもいるほどだったが、大会の3週間前にコーチとなったタチアナ・タラソワの効果もあったのだろう。スパイラル、イナバウアー、全身で示す表現と、まさに優勝にふさわしい演技で喝采を浴びた。荒川が見せた涙は、自身、心から満足していることを表しているようだった。

【震災で延期された2011年、安藤美姫の言葉。】

 3人のチャンピオンのあとに続いたのが、安藤美姫と浅田真央である。

 15位に終わったトリノ五輪の翌シーズンとなる'06-'07年、ニコライ・モロゾフをコーチに迎えた安藤は見違えるような姿を見せた。絞り込まれた体型、磨かれたスピンとステップ、そしてジャンプ。観る者を惹きつける表現とともに好成績をあげたシーズンの締めくくりとなったのが、世界選手権優勝であった。

 東日本大震災により時期を延期し、東京から場所を移して行なわれた'11年のモスクワでは2度目の優勝。ショート、フリーのすべてのスピンでレベル4を獲得したのはむろんのこと、フリーで見せた、落ち着きの中にもどこか強い気持ちを感じさせる演技が強い印象を残した。

「自分の演技を見て、一人でも多くの人が笑顔を取り戻せたら」

 そんな願いを込めて滑っていたという。

【浅田真央、2度の劇的な世界一。】

 そして浅田の2度の優勝もまた、見たものの心に強く刻まれている。

 '08年のイエテボリのフリーは劇的な滑りとなった。冒頭のトリプルアクセルは踏み切りに失敗し、リンクの壁にぶつかるほどの激しい転倒。精神的にも肉体的にも衝撃は大きかったはずだ。だがそこからが真骨頂だった。素早く立ち上がると、その後はシーズンで最高ではないかと思える演技を見せて優勝を果たしたのだ。

 '10年の世界選手権は、バンクーバー五輪の翌月だった。バンクーバーではショートで会心の演技を見せ、フリーでも2度トリプルアクセルに成功した浅田だったが、それ以外の部分でミスが相次いだ。銀メダルだったという結果以上に、ミスをしたことが許せず、涙を流した。だが世界選手権では、オリンピックから1カ月しか経っていないにもかかわらず、見事に立て直した姿を見せた。

「オリンピックでミスしたジャンプも跳べましたし、悔しさや力強さを最後のステップに込めました。自分の中ではほぼパーフェクトです。それが本当にうれしいです」

 試合のあと、浅田は笑顔で口にした。

【優勝だけが選手を輝かせるわけではない。】

 彼女たち5人はそれぞれに持ち味を発揮し、栄冠を手にした。

 いや、優勝した選手ばかりではない。近年で言えば、'08年の世界選手権で4位ながら、フリーでの情感豊かな演技をスタンディングオベーションで称えられた中野友加里は間違いなく大会の華であった。

 代表を逃した前年の悔しさをバネに、'12年の世界選手権で3位と初めて表彰台に上った鈴木明子の場内を引き込む明るさも、「どこからでも人間は成長できると信じてきました」という言葉とともに印象的だ。世界選手権という舞台だからこそ見られる演技が、今まで重ねられて、歴史は築かれてきた。

 ソチ五輪が終わってからひと月が経ち、3月26日にはさいたまスーパーアリーナで世界選手権が開幕する。

 日本女子は浅田、鈴木、村上佳菜子の3人が出場する。

 彼女たちをはじめとするスケーターたちが大会をどのように彩っていくのか、そしてオリンピックを経て、日本のファンの前でどんな姿を見せるのか。

 それがまた、世界選手権の新たな歴史を刻むことになる。

NumberWeb 松原孝臣=文 2014/03/10 10:30
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【浅田真央を“最悪のリンク”で調整させたスケート連盟の失態】

 自己ベストをマークした舞いに、「これが自分がやろうと思っていたこと」と、演技終了直後に頬を濡らした浅田真央(23)。敗れてなお、多くのファンの記憶に残る伝説を作った。その陰で、ソチへの最終調整の場に関して、浅田側とスケート連盟は揉めに揉めていた。

「真央には、精神的にもっとも落ち着ける場所で最終調整をさせてあげたい」と、佐藤信夫コーチ(72)は、スケート連盟幹部に(練習拠点の)中京大リンクで調整したい思いを伝えたという。だが連盟は、ソチへ移動が数時間でできる隣国アルメニアのリンクを確保していた。

 そこで、浅田側と連盟の“対立”の間に、第三案として浮上したのが、浅田の振付を担当するタラソワコーチ(67)の口添えで、ロシア代表のソトニコワ(17)、リプニツカヤ(15)らと一緒にモスクワの「ロシア・ナショナル・トレーニングセンター」で最終調整をおこなうという案だった。

 しかし、この案にも連盟は首を縦に振らなかった。 結局、浅田は連盟に押し切られる形で、渋々アルメニアに向かった。

「この決断が最悪だった。アルメニアのリンクの氷には砂が混ざっているうえにガタガタ。急遽、刃を研ぎ直す必要に迫られた。しかも空調設備が悪く、非常に寒かった。浅田は最終調整どころか、調子を狂わせてソチ入りした」(スポーツ紙記者)

 連盟による“妨害”はこれだけではない。現地の報道関係者を取材すればするほど、それは次から次へと噴出するのだ。

「連盟幹部たちは、我々に対しても高圧的。取材させてやっているんだという態度で、少しでも気に食わないことがあれば、『何を書いているんだ』と取材パスを取り上げられた記者も過去にいたほど」(民放関係者)

 それは選手に対しても同様で、今回の男子代表選手にも勇気づける立場にあるはずなのに、心ない言葉を浴びせ、逆に追い込むようなことをしていたという。

「女子選手に直接言わないにしても、そのコーチや関係者などに失礼なことを言うのは日常的。選手をサポートする立場なのに、彼らはそれをせずに何をやっているかといえば、選手村で頻繁に酒盛り。チーム・ジャパンとして機能しているはずがない」(スポーツライター)

 今回、連盟幹部は十数名ソチ入りしているが、はっきりいって遊びに来ているのと同じ、とスポーツライターは続ける。

「彼らの遠征費は、浅田らの広告料から多くが出ているが、そのお金で我が世の春を謳歌しているにほかならない。見かねた男子選手やその周辺からは『連盟の誰も信用できない』と、我々に相談をもちかけてきたこともあった」

 五輪前、男女で複数のメダルを目標に掲げながら、選手をサポートできない連盟は猛省どころではすまされない。

(週刊『FLASH』3 月11日号)

女性自身 2月26日(水)0時0分配信


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週刊誌の記事ではあるのですが、スポーツ報知の記者もアルメニアのリンクについて
氷に砂があってエッジが傷付き、冷凍庫のように寒く、ホテルに缶詰めでレトルトで自炊と言ってました。
そんなところでいい調整が出来るはずがありません。
スケート連盟の悪評は既に耳にしていましたが、ここまで酷いとは。
これ以上選手の足を引っ張るのはやめてほしい。選手が可哀相です。
【真央、気に留めた様子なく「森さん、後悔しているのでは」】

 ソチ五輪のフィギュアスケート女子で6位だった浅田真央(中京大)は25日にソチから帰国。その足で東京都内の日本外国特派員協会へ行き、記者会見を行った。特派員の関心は“引退か現役続行か”のほかに、森喜朗元首相が「あの子は大事なところで転ぶ」発言。浅田は「人間なので失敗はある」と気に留めた様子はなかったが、「今は少し後悔しているのでは」と東京五輪組織委員会会長という立場をおもんばかった。浅田の一問一答は次の通り。

 「ソチ五輪は最終的には、自分の目指している演技ができた。でも、もう一つの目標として、日本にメダルを持って帰って来られなかったのは今でも残念だし、悔しい気持ちでいっぱい」

 --世界中のスケーターからたくさんの称賛の声があった

 「たくさんのスケーターがショートプログラム(SP)の後に心配してくれた。『頑張れ』というメールをたくさん送ってくれた。次の日のフリーで、期待に応えられる演技ができたのはすごくうれしく思う」

 --フリーの演技の後には涙を流した

 「前日のSPで自分の気持ちもどん底に落ち込んでいたので、フリーは不安や恐怖心があった。それを乗り越えての最高の出来だったのでホッとして、うれしさのあまり、最高の気持ちになった。本当は笑顔が良かったが、前日の気持ちも消えたわけではなかったので、泣いてしまった」

 --SPの失敗からフリーでは挽回したが、強い気持ちの源は

 「一つではない。いろんな経験をしてきた。コーチや支えてくれた人の言葉や『できる』と思ってやったことが、自分の気持ちを復活させられた理由だと思う」

 --トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を外せばリスクが減ったのでは

 「小さい頃から伊藤みどりさんに憧れていて、それを継ごうと思って挑戦してきた。トリプルアクセルは自分を強く持たせてくれるもの。試合で、挑戦して成功したときには達成感でいっぱいになる。今回、フリーの演技にトリプルアクセルはずっと入っていたので、飛ばないという選択肢はなかった。一番の見せ場だと思っているので、絶対に外すわけにはいかなかった」

 --ソチ五輪で学んだことは

 「この五輪で悔しい気持ち、最高の気持ちと、いろんな感情があった。今まで以上に充実した試合だった。SPでの結果は悔しかったが、強い意志を持って諦めなければ、自分の目指すものができると改めて強く感じることができた。今後の人生にも生きてくると思う」

 --転ぶのは痛いか

 「自分が『転ぶ』と思うときはまったく痛くないが、自分が『転ばない』と思ったときに突然転ぶのはめちゃくちゃ痛い」

 --韓国のキム・ヨナとはライバル関係にあったが、日韓問題について感じることは

 「私から何か言うことはできない。私とキム・ヨナ選手は小さいころからライバルとしてメディアに注目されてきた。リンクを離れれば、普通に話をしたり、友達のような関係だと思っている」

 --今後については

 「昨年、集大成という言葉を使って報道にもたくさん、取り上げられてしまった。私自身、この1年間、ソチ五輪まで集大成という思いでやってきた。今回のフリーでは、悔いなく、終わりたいという気持ちで滑った。でも、試合はこの後も一つ(世界選手権が)残っているので、そこでしっかり最高の演技をしてから、自分の気持ちと向き合って今後を考えていきたいと思っている」

 --将来、スケート以外の分野での活躍を考えているか

 「将来のことはまだ何も考えていない」

 --来季以降も現役続行の可能性は何%か

 「もう一つ試合が残っている。世界選手権では、フリーもSPも両方そろえられるようにしたい。ショーがその後にあるので、全国の皆さんに感謝の滑りをしてそれから、落ち着いて考えたい。今のところハーフハーフで」

 --東京五輪組織委員会会長の森喜朗元首相が「大事なときには必ず転ぶ」と発言した

 「終わったことなので何とも思っていないが、聞いたときは『あっ、そうなんだ』と思った。人間なので失敗することはある。仕方ないとは言えないとは思うが、自分も失敗したくて失敗しているわけではないので、それは違うのかなと思った。でも、森さんはそう思ったのではないか」

 --森元首相は5年間、東京五輪組織委員会会長を務める予定だが、日本チームは耐えられるか

 「私は何とも思っていないが、ああいう発言をしてしまい、森さんは今、少し後悔しているのではないか」

産経新聞 2月25日(火)14時36分配信

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森元首相は後悔してますかね?
この人が失言するのは昔から。何も変わってない。
真央ちゃんの方が大人。
【真央にサプライズ フリー使用曲が閉会式で演奏】



 ◇ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」

 【ソチ芳賀竜也】「集大成」の五輪で会心の演技を見せたヒロインに、とっておきのプレゼントが待っていた。23日行われたソチ冬季五輪の閉会式では、フィギュアスケート女子6位入賞の浅田真央選手(23)=中京大=がフリーで使用した、ロシアの作曲家ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」が演奏された。ショートプログラム(SP)での出遅れが響いてメダルには手が届かなかったが、「ラストシーズン」として五輪に臨んだ浅田選手へのねぎらいの調べとなった。

 閉会式には、日本選手団から約120人が参加した。「大会中は試合に集中してしまうので、(閉会式では)五輪を楽しみたい」と話していた浅田選手。サプライズは、閉会式の中盤に待っていた。

 ステージ中央の仕掛け床からロシア気鋭のピアニスト、デニス・マツーエフさん(38)が登場。計62台のピアノがマツーエフさんのグランドピアノを取り囲み、アトラクションを交えながら「ピアノ協奏曲第2番」が演奏された。

 銀メダルに輝いた2010年バンクーバー五輪では、フリーに同じラフマニノフの「鐘」を選んだが、自ら満足できる演技ができなかった。だからこそ、今回は「同じ作曲家の曲でレベルアップした自分をアピールしたい」との目標を込めた。

 SPで失敗したが、20日のフリーは好演。4年かけて「ラフマニノフの借り」を返した。「二つ(2大会)合わせて私の中で最高の五輪」と浅田選手。閉会式でのラフマニノフの演出は偶然だったが、浅田選手や、彼女を支え、応援してきた人々の胸にしっとりと響いたはずだ。

毎日新聞 2月24日(月)11時3分配信
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