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フィギュアスケーターの浅田真央さんを応援するブログ
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 現役引退を表明したフィギュアスケートの浅田真央(中京大)が12日、都内で会見を行い、決断に至った経緯やこれまでの競技生活について語った。

 報道陣430名が詰め掛ける中、登壇した浅田は「決断をするにあたって悩みました。やり残したことは何だろうと考えたときに、ないと思ったので、すべてやり尽くした」と晴れやかな表情を見せた。引退を決めるきっかけとなったのは、昨年末の全日本選手権。12位に終わり「もういいんじゃないかなと思った」という。

 会見では終始笑顔だった浅田だが、最後のあいさつでは声に詰まる場面もあった。それでも「スケート人生で経験したことを忘れずに、これから新たな目標を見つけて、笑顔で前に進んでいきたいと思っています」と力強く宣言した。

 以下は、浅田のあいさつと質疑応答。


【全日本で12位「もういいかなと」】

 本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。私、浅田真央は選手生活を終える決断をいたしました。長い選手生活でしたが、たくさんの山がありました。でも、その山を乗り越えてこられたのも、たくさんのファンの方の応援があったからだと思います。今日は感謝の気持ちをお伝えできればと思い、このような場を設けさせていただきました。

―まずはお疲れさまでした。2日前、ブログで引退を表明されて今、あらためてどんな心境?

 まずこの場に入ってきたときに、これだけのたくさんの方が集まってくださって、本当にびっくりしましたが、少し落ち着いてきました。

―いろんな人から引退についてのコメントをもらったかと思うのですが、印象に残ったコメントは?

 たくさんの方が連絡をくれました。皆さんが「お疲れさま」という声を掛けてくれて、私自身も「選手生活を終えるんだな」という気持ちになりました。

―親しい人への報告はどのような感じで?

 少し前に家族や友達に報告しました。みんな「お疲れさま、よく頑張ったね」と言ってくれました。

―引退を決めたきっかけ、その時期は?

(2014年春から1年間の休養。翌年復帰して)復帰してから、いい形でスタートできました。でも、そこから試合に出るにつれて「今のスケート界についていけるのかな」という思いが強くなったり、体の部分で復帰前よりも少し辛い部分が多くなりました。なんとか1シーズンは乗り切れたんですが、2シーズン目からは「なんとか、なんとか頑張ろう」という気持ちでやってきました。でも最後の全日本選手権を終えて(16年12月の大会で12位)、もういいんじゃないかなと思いました。

―その全日本選手権からこれまでの3カ月、どんな思いだった?

 復帰してからずっと「平昌五輪に出る」という目標を掲げてきました。目標をやり遂げないといけない、(自分の気持ちと)自分が言ってしまったこととの葛藤がずっとありました。

―全日本選手権がきっかけとなり、引退を決めたのは具体的にはいつごろ?

 全日本選手権が終わって結果が出たときに「ああ、終わったんだな」と思いました。でも、日がたつにつれて、自分が言ってしまったことは今まで最後までやり通してきたので、「やらなきゃいけないんじゃないか」という思いの方が強くて、ここまで(引退発表が)延びてしまいました。

―平昌五輪への思いもあった。それを上回るくらいの達成感だった?

 そうですね。ソチ五輪が終わってから最高の形で終えることができたのですが、自分の体もまだまだできましたし、気持ちとしてもまだまだやれるという思いがあったので、復帰しました。体も気力も全部出し切ったので、今は(復帰して競技に)挑戦して、何も悔いはないです。

―最後の大会となった全日本選手権でトリプルアクセルに挑戦。全日本選手権で挑んだ気持ちは?

 最後になるのかなという気持ちは、ソチ五輪後の世界選手権ほどではなかったです。でもトリプルアクセルを挑戦して終えられたことは、自分らしかったかなと思います。


【一番印象に残っている演技は「ソチのフリー」】



―現役生活を振り返って。初めてスケート靴を履いたときのことを覚えている?

 5歳だったので、覚えてはいないんです。でもヘルメットをかぶって、スキーウエアを着て、肘あて、膝あてをしていたのは、写真に残っています。

―スケートをやってきて一番楽しかったのは?

 フィギュアスケートにはいくつも技がありますが、小さいころにその技をいくつもできるようになったときは、本当に楽しい気持ちになりました。「次は2回転を跳びたい、3回転を跳びたい」と思って。そういう思いがすごく楽しかったです。

―プレッシャーや辛かったことは?

 辛かったことはそんなにありません。この道を選んできたのは自分ですし、自分がやりたいと思って、望んでやってきた道なので、辛いと思ったことはありません。

―2回の五輪を振り返って。銀メダルを獲得したバンクーバー五輪の思い出は?

 バンクーバーは19歳だったのですが、すごく10代で若くて、気が強くて、その気持ちだけで乗り越えてきたという感じがします。

―そして4年後のソチ五輪では、素晴らしいフリーで国民に感動を与えた。ソチ五輪については、どんな思いがある?

 ソチ五輪はショートが残念な結果(16位)だったので、すごく辛い試合ではありました。でもフリーを最高の演技で終えることができた。ああいう気持ちの状態でしたが、バンクーバーからソチまで4年間の思いを、すべて(フリーの)4分間に注ぎ込めたと思っています。

―2度の五輪の経験はどんな経験だった?

 私の今後の人生においても、すごくいい経験、いい思い出だったのかなと思います。

―3回の世界選手権優勝は日本人最多。印象に残っていることは?

(金メダルのうち)2回の優勝は五輪後の世界選手権だったので、五輪の悔しさを晴らせた大会だったのかなとは思います。ソチ五輪後の世界選手権は、これで最後と思って臨んだ試合でした。今までのスケート人生のすべてをプログラムにぶつけた試合だったので、思い入れは一番強い試合でした。

―現役生活を振り返って、最も印象に残っている演技は?

 難しいですね。1つというのは難しくて、でもやっぱりソチのフリーかなと思います。

―あの時間に込めた思いは強かった?

 今までの試合以上に、落ち込んでいたり辛かったところもありました。それでもあれだけの挽回の演技ができたことに関して、そしてそれが五輪だったというのが一番良かったのかなと思います。
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【「今は何もやり残したことがない」】



―長く指導を受けた2人のコーチについて。まずは山田(満知子)コーチについて、どんな思いがあるか?

 満知子先生には小さいころに指導を受けていましたが、本当にスケートの楽しさや、挑戦する楽しさを教えてくれました。その一方でスケートだけではなく、いろんなことを教えてくれた先生です。

―佐藤(信夫)コーチへの思いは?

 佐藤コーチには大人になってから指導を受けたのですが、自分は意志が強い方……というか強いので、先生とはいろいろと話し合いをする機会も多かったです。いろいろと意見を聞いてくださって、見守ってくれた先生でした。

―休養があって、復帰してからの2年間を振り返って?

 ソチ五輪のシーズンで世界選手権を終えて、そこで自分が選手生活を終えていたら、本当に今もできたんじゃないかなと思っていたと思います。でも自分が望んで復帰をして、チャレンジして出した結果なので、本当に今は何もやり残したことはありません。そういった意味で自分でチャレンジすることができて良かったなと思っています。

―今後について。今後、浅田さんがどんな仕事をしていくのか注目が集まっている。まずは自分の中でどんなプランがある?

 夏にアイスショーの「THE ICE」(7月大阪、8月名古屋)があります。そこで選手生活を終えて初めて皆さんの前で滑るので、良い演技を目指して頑張りたいと思います。

―これから、フィギュアスケートにどういった形で携わっていく?

 5歳から今までスケートにはお世話になりました。これから、どんな形であっても、フィギュアスケートに恩返しができるような活動はしていきたいなと思います。

―浅田さんに憧れてフィギュアを始めた選手たちが、今トップスケーターになってきた。日本フィギュア界の今後についてエールをお願いします。

 引退された大先輩の方をはじめ、私も引退をすることになりました。今までスケート界を引っ張ってこられたと思っています。これからは若い選手がどんどん出てきているので、若い選手が、若いパワーで、スケート界を引っ張っていってほしいなと思います。

―浅田真央さんにとってフィギュアスケートは、あらためてどんな存在?

 難しいですが、一言で言うと人生かなと思います。

―今、引退を発表されて、自分を褒めてあげたい部分、褒めたい部分はどういうところ?

 私はなんでも“はまって”しまう反面、飽きてしまうことが多い性格です。でもこのスケートは5歳から26歳まで続けてこられたので「長い間すごいね、続けてきたね」と言いたいです。

―そういった意味では、どういうスケート人生だった?

 すべてがスケート中心の生活だったので、本当に私の人生です。

―ファンの皆さんも浅田選手を支えてきたと思います。ファンの皆さんに一言お願いします。

 本当にたくさんのファンの方が私のことを応援してくださって、本当に長い間、良い時も悪い時も、諦めずに応援してくれていたので、それがすごく励みやパワーになりました。本当に感謝しています。ありがとうございました。


【平昌五輪を諦めるか葛藤】



―自分が思い描いていた引退のイメージだったか?

 発表するまで、自分の中で実感はありませんでしたが、ここに座って、今までのことを振り返りながら話していると、「引退するんだな」という気持ちは湧いてきますね。

―何か1つでも悔やむことは?

 決断をするにあたって悩みました。やり残したことは何だろうと考えたときに、ないと思ったので、すべてやり尽くしたと思います。

―「ノーミス」という言葉を非常に多く言っていたと思う。パーフェクトにこだわった理由は?

 失敗はしたくないですし、それだけ試合に向けて練習してきたからこそ、誰もがミスしたくはないと思います。自分は試合にそこまで強いタイプではなかったので、あえて自分に言っていたんだと思います。

―トリプルアクセルは浅田さんにとってはどういうものか?

 私は伊藤みどりさんのようなトリプルアクセルが跳びたいと思って、その夢を追ってやってきました。跳べたときはすごくうれしかったですし、自分の強さでもあったと思うんですけど、その反面悩まされることも多かったです。

―そのトリプルアクセルに声を掛けるとすると?

 トリプルアクセルに声を掛けるんですか(笑)。う~ん、なぜもっと簡単に跳ばせてくれないのという感じです(笑)。

―ここまで現役生活を続けることができたが、支えとなっていたものは?

 1つは自分の目標ですね。あとはたくさんの方に支えられて、応援されてきたことかなと思います。

―今年の世界選手権で平昌五輪の枠が2枠になった。それは引退の決断に影響した?

 平昌五輪の目標をあきらめることを許せるのかな、許せないのかなと考えながら過ごしてきました。でも最終的に話し合いをして決めたのが2月だったので、世界選手権が影響したというわけではないです。2枠になったことは残念だとは思いますけど、その2枠をたくさんの選手が争うわけなので、すごくハイレベルな試合になると思います。
【「目標を達成する強い気持ちでやってきた」】



―フィギュアスケートが日本でブームになり、世界でも強い国になったことについて浅田さんはどういう貢献ができたと感じているか? またこれまで自分がやってきたことが、今後の日本のスケート界で続くためにどういうことをしていきたいと思うか?

 私が小さいころは伊藤みどりさんをはじめ、素晴らしいスケーターがたくさんいました。私もその方々たちを見てこうなりたいと思って ずっとそれを目指してやってきました。ジュニアやシニアに上がってからは、本当にみんなそれぞれ強くて個性的な魅力のある選手たちが集まって、切磋琢磨(せっさたくま)して頑張ってきました。それを支えてくれる方々や、応援してくれるファンの方々がいたから、頑張ってこられました。これからのスケーターの子たちにはみんなで高め合って、刺激を受けながら頑張ってもらいたいと思います。

―選手人生においてたくさんの山があったとおっしゃっていた。ソチ五輪のショートからフリーまでの22時間で、どうやって立ち直ったのか?

 ショートが終わってからは日本に帰れないと思って、辛い思いもしました。フリー当日の朝も気持ちが切り替わっていなくて、このままで大丈夫なのかなという気持ちで公式練習を終えました。試合が近づくにつれて、メイクをして、アップをして、リンクにつながるドアを開けた瞬間、すごい会場でこれはやるしかないなと。

―終わった瞬間の気持ちは?

 最後のポーズは上を向いていたんですけど、「ああ、終わった」と思いました。それと同時に「よかった」という思いがこみあげて、涙してしまったんですけど、バンクーバーのときも悔し涙を流していたので、これじゃダメだと思って笑顔にしました(笑)。

―違う世界に進むことで考えていることは?

 新たな一歩だと思っています。不安は何もなくて、ただ前にある道を進んでいくだけだと思っているので、新たな経験をして、元気に前を見て進んでいきたいと思います。

―(エフゲニー・)プルシェンコ選手も引退を発表したが、思うことはあるか?

 私よりも長い選手生活で、たくさんの記録を残してきて、多くの人を魅了してきた選手だと思います。心から「お疲れ様でした」と言いたいです。

―これまで大事にしてきた信念は?

 小さいころから変わらないんですが、何かこれがしたいという目標を持ってやってきました。目標を達成する強い気持ちを持って、ずっとやってきたつもりです。

―最後の全日本選手権はどういう気持ちで臨んだのか?

 試合に臨む気持ちは1つ1つ変わらないです。ノーミスをすることを考えていました。演技を終えたときにやはり完璧ではなかったですし、自分の最高の演技ではなかったので、悔しい気持ちもあったと思います。そのあとキス&クライにいて順位が出たときに、「もういいのかなもしれない」というふうに思いました。全日本選手権は12歳から出場しているんですけど、一番残念な結果で終わってしまって、そうした結果も大きな決断に至る1つのきっかけだったと思います。


【「これからも笑顔で前に進む」】



―今、五輪についてはどう思うか?

 あと1年で平昌五輪があります。選手の方々はいろいろな思いを持って日々過ごしていると思います。だから私はエールを送りたいです。

―五輪はどういう舞台?

 4年に1度ですし、選手である以上は小さいころからそれを目指してやってきて、そういう舞台でメダルを取れたのは良かったですし、五輪は本当に素晴らしい舞台だと思います。

―もし生まれ変われるとしたら、またフィギュアスケーターになりたいか?

 26歳までスケートをやって、すべて出し尽くしてもう何も悔いはないので、スケートの道は選ばないと思います。いろいろありますけど、食べることが大好きなのでケーキ屋さんとかカフェとか、レストランだったりをやっているのかなと思います。

―自分が言ったことはやり遂げるポリシーがあると言っていた。そのポリシーはどなたから授かったのか?

 母からかなと思います。あとはこういう性格なので、普段はそんなことはないんですけど、自分が決めたことに関しては頑固なつもりです(笑)。

―自分が決めたことを貫いた最初の体験は?

 毎年、野辺山合宿という新人発掘合宿があるんですけどで、そこで絶対にトリプルアクセルを跳ぶと決めて合宿に行って、初めて降りたということが記憶にあります。そのときに目標を達成するとこんなにうれしいんだなと。また頑張りたいなと思えたときでした。

―ご結婚の予定は?

 ないです(笑)。お相手がいれば一緒に今日も入れたんですけどね(笑)。

―台湾の記者です。卓球の福原愛選手と同じように台湾の人と結婚の可能性はありますか?

 愛ちゃんとお友達なので、台湾の方が良い方がいたらご紹介してほしいなと思います(笑)。私、本当に行ってみたい国が台湾なので、愛ちゃんに案内してもらいます。

―今後、プロスケーターとしての活動もあると思うが、どんなスケートを見せていきたいか?

 一番近くにあるのは「THE ICE」なので、まだプログラムも作っていないんですけど、エキシビションナンバーを作ります。今までのスケート人生を注ぎ込めるようなプログラムを作っていきたいと思います。

(最後に再びあいさつ)

 皆さん、今日は本当にありがとうございました。発表してから2日間、多くの温かい言葉をいただいて、晴れやかな気持ちで引退を迎えることができました。(言葉を詰まらせる)。スケート人生で経験したことを忘れずに、これから新たな目標を見つけて、笑顔で前に進んでいきたいと思っています。皆さん応援どうもありがとうございました。


スポーツナビ
2017年4月12日(水) 15:40
【真央 ソチ五輪涙の理由初告白「悔しかった」】

 フィギュアスケートの浅田真央(24)=中京大=が20日、NHKの「サタデースポーツ」に出演し、ソチ五輪のフリー直後に流した涙の理由を初めて明かした。

 日本中がもらい泣きした、2月のソチ五輪フリー直後の浅田の万感の涙。ショートプログラム(SP)はミスが続き、まさかの16位に沈んだが、翌日のフリーではほぼ完ぺきな演技で自己ベストをマークして6位に順位を上げた。それだけに満足、充実の涙かと思われていたが…。

 「終わったときは、今思うと悔しい気持ちの方が強かった。何であのショート(SP)ができなかったんだろう、できてたら変わったんだろうなあという思いがこみ上げ、悔しかった。でも、ここで最高の演技ができたから、最後、笑顔で終わりたいと思って笑顔になりました」

 滑り終えた直後、天を仰いで涙を流し、その後は笑顔になった。その間には、そんな心の動きがあった。

 浅田は5月19日に「今は自分の体も心も少しお休みさせたい」と1年間の休養を表明。現在は旅行や食べ歩きを楽しんでいるが、新たにジャズダンスを始めたという。「3歳から始めたんですけど、スケートが忙しくなって行けなくなったので、また…」と、楽しそうに説明した。

 浅田は21日に新横浜スケートセンターで行われるアイスショー「クリスマス・オン・アイス」に出場し、4カ月ぶりにリンクに立つ。

デイリースポーツ 12月20日(土)23時30分配信
【絶望を救った初めての「頑張れ」】



 日本中が泣いた。2月20日(日本時間同21日)、ソチ五輪フィギュアスケート女子フリーで浅田真央(24=中京大)が圧巻の演技を披露した。ショートプログラム(SP)で55・51点の16位という最悪スタートから一転、フリーで自己ベスト142・71点の逆襲劇。表彰台にも届かない6位だったが、集大成の五輪は見る者の心に深く刻み込まれた。あの“伝説の4分”に秘められた物語が今、明かされる。

 携帯電話が鳴った時、浅田は一人、選手村の食堂にいた。2月20日、ロシア・ソチの午前11時ごろだった。前日(19日)のSPの失意を引きずりながら、少し早めのランチタイム。電話に手を伸ばし、通話ボタンを押す。日本で見守っていた姉・舞さん(26)の声が、耳に届いた。

 「今まで頑張ってきたんだから、今の気持ちのまま臨むの、もったいないよ!絶対できるから、やらないと駄目!最後だから、頑張りなよ!」

 SPは冒頭のトリプルアクセルの転倒など、全てのジャンプを失敗。団体(8日)の64・07点を下回る55・51点は、11~12年シーズン以降のワーストだった。まさかの16位。「自分でも、終わってみて何も分からない…」。現実を受け入れることも、原因を分析することも容易ではなかった。

 フリーは翌20日。これまでSP上位6人が滑る最終組が定位置だった浅田だが、SP16位のため4組中2組目での滑走になった。SPを滑り終えた9時間後の午前8時35分に、20日の公式練習がスタート。前夜、なかなか寝付けず、浅田は予定の時間に起きられなかった。バスには間に合ったが、ウオーミングアップなど準備が遅れ、練習に少し遅刻した。

 公式練習の浅田は、ミスを連発した。覇気もなく、顔色も悪かった。日本にいた舞さんは、テレビで練習の様子を見た。いつもの妹でないことは明白だった。「これは、話をしないといけない」。SP後、舞さんは無料通信アプリ「LINE」でメッセージを送っている。「既読」にはなったが、返信はない。だから、電話をかけた。ソチとの時差は5時間。日本の午後4時ごろだった。

 10年バンクーバー五輪。舞さんは現地で浅田を応援した。だが、これ以降、会場で応援する回数は激減し、大会期間中も連絡を取らないように努めてきた。家族と触れることで、どこか甘えてしまう妹を知っていたから。だが、ソチでは自ら定めた“ルール”を破った。「何でですかね。今まで“頑張れ”なんて言ったことなかったのに、自然と出ちゃった」と舞さんは振り返った。

 姉との電話を終えた浅田は関係者に漏らした。「ホッとした」。厳しく、優しい舞さんの激励が、絶望から救ってくれた。ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」で臨んだフリー。浅田の心は、軽くなっていた。=続く=


【聞いてないようで“効いていた”言葉】



 2月20日(日本時間同21日)、ソチ五輪フィギュアスケート女子フリー。集大成のリンクに向かう浅田真央(24=中京大)に掛けた言葉は、いつもと同じだった。フリー演技直前、フェンスを挟み、佐藤信夫コーチ(72)は語り掛けた。「あなたは考えられるだけの練習をキチッと全部やってきた。できない理由はない。僕にはできない理由が見つからない。できて当たり前なんだよ」。浅田はしっかりとうなずき、スタートポジションへ滑走した。

 浅田が姉・舞さんから電話を受ける前、佐藤コーチもまた、浅田に魔法をかけていた。フリー当日、絶不調の公式練習を終え、2人は選手村へのバスを会場内のラウンジで待っていた。「何でそんな話をしようと思ったのか。不思議なもんですね。ふと、ですよ」。世界殿堂にも入っている佐藤コーチは、自身の教え子の話を聞かせた。

 80年レークプラシッド五輪。松村充はへんとうが腫れるなどの体調不良に陥りながら、8位に食い込んだ。当時、「ぶっ倒れたら助けてやる。ぶっ倒れるまでやれ!」と鼓舞した“鬼”は34年後、浅田に「何かあったら絶対に行ってあげるから、心配いらないよ」と声を掛けた。「何十億人がテレビで見ていて、土足でリンクに入ったら主催者は怒るでしょうけどね、私は行く。そういう気持ちで伝えた」と同コーチは明かした。

 この時、浅田は相づちを打つこともなく、ずっと黙り込んでいた。視線も合わなかった。佐藤コーチは思った。「知ら~ん顔してるし、絶対に何も聞いとらんわ…」。ソチは同コーチにとって、選手時代を含めて11度目の五輪だったが、実は他の選手の演技を見られる初めてのチャンスだった。SP16位のため、浅田が4組中2組目で滑走することになったから。同コーチは最終組の演技まで堪能し、報道陣に対応するため取材エリアへ。そこで初めて知った。フリーを終えた浅田が、自らこのエピソードを明かしていたことを。

 これまでも浅田は佐藤コーチの話を聞いていないようで、実は聞いていたということが何度もあった。「技術的な話をしても、知らん顔してる。でも、次の日にはちゃんと言った通りに滑っている」と同コーチは笑う。10~11年シーズンから師弟関係を結び、スケーティングの基礎から見直してきた。フリーで見せたノーミスの演技。引き揚げてきた愛弟子に、72歳は言った。「ほら、やっぱりできたじゃない」。浅田は泣きながら、ニッコリと笑った。=続く=


【「こういう子が活躍するのかな」】



 なぜ、そう思ったのか今でも分からない。佐藤信夫コーチ(72)は、浅田真央(24=中京大)と初めて会った時のことを鮮明に覚えている。浅田が小学生時代、小塚崇彦(25=トヨタ自動車)を指導していた同コーチは、クロアチア遠征を共にした。帰国時、乗り継ぎ便を待つ間、母・匡子(きょうこ)さんとじゃれ合う女の子を見て、ふと思った。

 「ああ、こういう子が世界で活躍するのかな」

 当時、佐藤コーチにとって浅田は「浅田舞の妹」という認識でしかなかった。演技を見たこともなかった。あふれる才能に気付いていたわけではないのに、なぜか将来の活躍が予見できたという。浅田が各年代で活躍するたびに思い出した。あの日、空港で見た仲の良い母娘の姿を。

 浅田と佐藤コーチがスケートの話を初めてしたのは、10年バンクーバー五輪の翌3月に行われたトリノ世界選手権。日本チームでの朝食中、同コーチは「僕の年齢になると、スピンしたら目の中に星が飛ぶ」などと話していた。浅田は「私も星が出たことある!」と雑談に参戦。「なんで星が出るんですかね?」と聞かれた同コーチは、「それは練習不足だからだよ」と教えた。

 10年夏、匡子さんから佐藤コーチの元に電話がかかってきた。コーチ就任の打診だった。浅田はバンクーバー五輪で銀メダルを獲得し、世界選手権も制覇。既に輝く実績を残している選手を指導することに、最初は難色を示していた。だが、病魔と闘いながら、何度も頭を下げる匡子さんの熱意に押されて受諾。秋から本格始動した。

 匡子さんは11年12月9日、肝硬変で48歳の若さで死去。匡子さんと家族は約束していた。「これからも自分の夢に向かって、やるべきことをやる」。ソチ五輪のフリー前、浅田は誓っていた。「支えてくれたたくさんの方に、今回はメダルという形で結果は残すことができないけど、残すのは自分の演技」。一番近くで支えてくれた母へ、みんなへ、伝えたいメッセージがあった。

 ラフマニノフの荘厳な調べが会場を包む。開いた両手を体の前でクロスさせ、浅田のフリーが始まった。冒頭に3回転半を完璧に決めると、全ジャンプを着氷する。スパイラルから、万感のフィニッシュへ。最愛の母がいる天を見上げた。“伝説の4分”が終わり、涙があふれ出た。「心配してくれた人もたくさんいる。自分の最高の演技で恩返しができた」――。=終わり=

アネックス 12月18日(木)10時29分配信
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