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フィギュアスケーターの浅田真央さんを応援するブログ
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【伊藤、佐藤、荒川、安藤、そして浅田。世界選手権を彩った女王たちの系譜。】



 フィギュアスケートの世界選手権は長い間、シーズンを締めくくる大会として選手たちの目標となってきた舞台である。

 女子は1906年に第1回大会が行なわれ、戦争などでの中断を挟み、これまでに93回を数える。そのときどきに時代を彩るチャンピオンが現れ、数々の名場面が生まれた。

 その歴史の中に、5名の日本の選手の名前も刻まれている。

 日本初のチャンピオンが誕生したのは'89年、パリ大会のことだった。

 伊藤みどりは傑出したジャンプ力を武器に、小学5年生で出場した'80年の全日本選手権で3位になるなど「天才少女」と呼ばれた。その後、ときに故障に苦しみながらも階段をのぼっていった伊藤は'88年11月、愛知県での大会で競技会では女子世界初のトリプルアクセルに成功。そのシーズンの締めくくりとして5度目の世界選手権に挑んだ。

 圧巻はフリーの演技だった。着氷で乱れたもののトリプルアクセルを決めたほか、6種類の3回転ジャンプに成功。さらにスピンなどでも切れを見せつけ、優勝を果たした。9名のジャッジのうち5名が技術点で6.0の満点を出したことも特筆される。

【小塚崇彦をフィギュアへ駆り立てた、佐藤有香の演技。】

 '94年、千葉で行なわれた大会で優勝したのが佐藤有香である。佐藤信夫、久美子夫妻の娘であり、現在は振付け師、コーチとして活躍している。

 予選、ショートプログラムで1位の佐藤は、フリーでもジャンプで一つミスはあったものの、他のジャンプは成功。何よりも終盤のストレートラインステップにも表れていた、滑らかなスケーティングと溌剌とした演技に、場内が沸いた。

 佐藤の演技を観戦していた小塚崇彦が、その様子を見てフィギュアスケートに本格的に取り組む決意をしたのも有名な話だ。そして佐藤は、世界選手権優勝という肩書きとともにプロに転向。数々のアイスショーで活動するきっかけとなった。

 その10年後の'04年、ドルトムントで行なわれた大会で、3人目のチャンピオンが生まれた。それが荒川静香だった。

 ショートプログラム2位で迎えたフリーの「トゥーランドット」は、まさに圧巻としか言いようがない滑りであった。技術点で満点をつけるジャッジもいるほどだったが、大会の3週間前にコーチとなったタチアナ・タラソワの効果もあったのだろう。スパイラル、イナバウアー、全身で示す表現と、まさに優勝にふさわしい演技で喝采を浴びた。荒川が見せた涙は、自身、心から満足していることを表しているようだった。

【震災で延期された2011年、安藤美姫の言葉。】

 3人のチャンピオンのあとに続いたのが、安藤美姫と浅田真央である。

 15位に終わったトリノ五輪の翌シーズンとなる'06-'07年、ニコライ・モロゾフをコーチに迎えた安藤は見違えるような姿を見せた。絞り込まれた体型、磨かれたスピンとステップ、そしてジャンプ。観る者を惹きつける表現とともに好成績をあげたシーズンの締めくくりとなったのが、世界選手権優勝であった。

 東日本大震災により時期を延期し、東京から場所を移して行なわれた'11年のモスクワでは2度目の優勝。ショート、フリーのすべてのスピンでレベル4を獲得したのはむろんのこと、フリーで見せた、落ち着きの中にもどこか強い気持ちを感じさせる演技が強い印象を残した。

「自分の演技を見て、一人でも多くの人が笑顔を取り戻せたら」

 そんな願いを込めて滑っていたという。

【浅田真央、2度の劇的な世界一。】

 そして浅田の2度の優勝もまた、見たものの心に強く刻まれている。

 '08年のイエテボリのフリーは劇的な滑りとなった。冒頭のトリプルアクセルは踏み切りに失敗し、リンクの壁にぶつかるほどの激しい転倒。精神的にも肉体的にも衝撃は大きかったはずだ。だがそこからが真骨頂だった。素早く立ち上がると、その後はシーズンで最高ではないかと思える演技を見せて優勝を果たしたのだ。

 '10年の世界選手権は、バンクーバー五輪の翌月だった。バンクーバーではショートで会心の演技を見せ、フリーでも2度トリプルアクセルに成功した浅田だったが、それ以外の部分でミスが相次いだ。銀メダルだったという結果以上に、ミスをしたことが許せず、涙を流した。だが世界選手権では、オリンピックから1カ月しか経っていないにもかかわらず、見事に立て直した姿を見せた。

「オリンピックでミスしたジャンプも跳べましたし、悔しさや力強さを最後のステップに込めました。自分の中ではほぼパーフェクトです。それが本当にうれしいです」

 試合のあと、浅田は笑顔で口にした。

【優勝だけが選手を輝かせるわけではない。】

 彼女たち5人はそれぞれに持ち味を発揮し、栄冠を手にした。

 いや、優勝した選手ばかりではない。近年で言えば、'08年の世界選手権で4位ながら、フリーでの情感豊かな演技をスタンディングオベーションで称えられた中野友加里は間違いなく大会の華であった。

 代表を逃した前年の悔しさをバネに、'12年の世界選手権で3位と初めて表彰台に上った鈴木明子の場内を引き込む明るさも、「どこからでも人間は成長できると信じてきました」という言葉とともに印象的だ。世界選手権という舞台だからこそ見られる演技が、今まで重ねられて、歴史は築かれてきた。

 ソチ五輪が終わってからひと月が経ち、3月26日にはさいたまスーパーアリーナで世界選手権が開幕する。

 日本女子は浅田、鈴木、村上佳菜子の3人が出場する。

 彼女たちをはじめとするスケーターたちが大会をどのように彩っていくのか、そしてオリンピックを経て、日本のファンの前でどんな姿を見せるのか。

 それがまた、世界選手権の新たな歴史を刻むことになる。

NumberWeb 松原孝臣=文 2014/03/10 10:30
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【浅田真央は決して言い訳をしない。最後の全日本も、笑顔で魅了する】



 あの浅田真央が、もう最後の全日本選手権を迎えるなど、誰が信じられるだろうか。

 '05年のGPファイナル優勝で劇的なデビューをしてから8年、世界のトップとして戦い続けてきたのだから選手生命は十分に長い。それでも、何年たっても変わらない可憐さからか、最高のパフォーマンスからか、浅田は永遠に天才少女のままファンを魅了してきた。

 浅田は、忍耐の選手だ。どんなスランプやトラブルが起きても言い訳をせず、ポジティブな言葉しか口にしない。不調な時はどんどん言葉数が少なくなり、「練習で自信を付けたい」「ノーミスの演技をしたい」と同じ言葉を繰り返す。「実は」と苦悩を打ち明けるのは、いつも結果を出した後だ。そしてファンは「そんなに大変なことがあったのか」と後で知る事になる。

 周囲を驚かすほどの忍耐力を初めて示したのは、17歳で世界女王になった'08年世界選手権だった。1月にラファエル・アルトゥニアンと師弟関係を解消し、3月まで独りで練習しての世界選手権。しかも2月には足首をねんざしており、スケート靴の紐が結べないほど腫れ上がっていた。

 精神的にも肉体的にも追い詰められた試合で、さらにフリー演技冒頭のトリプルアクセルで、跳ぶ前にすっぽ抜けて転倒し壁に激突。全身を強打しながらも、すぐに起き上がるとその後の演技はノーミスでまとめ、優勝した。

【変わらぬ優雅さと、越えてきた数々の困難】

 一夜明けて浅田は、師弟関係の解消とねんざについて告白すると、

「もう追い込まれるのには慣れました。最後まで諦めないで良かった」とサラっと言ってのけた。その左半身は青アザだらけだった。

 この時から、浅田の強さの秘訣は「逆境力」と言えるような出来事が続いた。見た目の優雅さはまったく変わることはなかったが、困難が心を強くしてきた。

 バンクーバー五輪前はタチアナ・タラソワに師事していたが、普段は国内で自主練習する形式をとっていた。気づいた時にはジャンプフォームが自分流になり、自分のジャンプを見失っていた。それでも、その時点では誰にも不安は打ち明けず、国民の期待を一人で背負って五輪に挑んだ。そして誰もが知る通り、トリプルアクセルを計3本成功。別の不運なミスがあり銀メダルとなったが、十分な完成度だった。

 そしてやはりシーズンオフになってから、こう打ち明けた。

「五輪前はジャンプが崩れていて、自分でも不安でした。昔のように軽々と跳べなくなっているし、成功するかどうかイチかバチかで跳んでいたんです。だから今シーズンはちゃんとコーチについて1から習いたい」

 五輪では、1本も成功しなくても不思議では無いほどの状況だったと明かしたのだ。

【ジャンプフォーム改造中、一言も不安を口にはしなかった】

 '10年秋からは、佐藤信夫コーチのもとで、滑りやジャンプフォームの大改修に着手した。2シーズンはジャンプフォームが固まらずに成績も伸び悩み、浅田のスランプは大問題かのように報じられた。本来、フォームを直すには数年かかるのが当然なのだが、言い訳はせず沈黙に徹した。ただひたすら「いま信夫先生とジャンプを修正している。少しずつ良くなっている」と繰り返した。

 好調を取り戻したのは昨季からだ。

「信夫先生とやってきて、最初は本当にこれでいいのかな、私がやってる方向は合ってるかなと半信半疑で不安もありました。でも最近は先生の求めているスケートが分かるようになりました」

 と笑顔を見せた。不調だった2年間は「半信半疑」などという言葉を打ち明けたことは全くなかった。

【疲労の限界と痛みの中で手にしたファイナル優勝】

 好調だった昨季も、ちょっとした逆境を体験した。GPシリーズ2連勝と波に乗っていたものの11月から腰痛になり、佐藤コーチから練習を止められたが、無理に練習した。腰痛を悪化させて臨んだ'12年GPファイナルの試合当日、あまりの激痛に浅田自らが「腰が痛くてジャンプがコントロールできない」と打ち明けた。

 これまでだったら、独りで逆境からパワーを得ていた浅田だったが、その日、背中を押したのは佐藤コーチの言葉だった。

「こんな状態でもどれだけ自分ができるか、『どんなもんだ』っていうのを見せてきなさい」

 その言葉に納得し、前向きな気持ちを取り戻した浅田は、トリプルアクセルには挑戦せずプログラム全体を美しくまとめる演技で4年ぶりにファイナル優勝。優勝を決めたあとで腰痛を周囲に打ち明けると、こう話した。

「もう22歳になって身体も子供の時とは違う。疲労の限界が痛みになって出てくるようになっていたんです」

 痛みを抱えながらもパワーを発揮する。精神的な強さは健在だった。
 そして迎えた集大成の今季。シーズン初戦からトリプルアクセルを解禁し、まだクリーンな成功はないが挑戦し続けている。

【思わず「悔しい」という言葉が漏れた】

 スケートアメリカでは、ショートは片足で降りたものの、フリーでは転倒した。

「初戦からトリプルアクセルに挑戦できる状態で試合に臨んでいることが、これまでと違います。練習では跳べています」と強気発言。

 NHK杯では、ショート、フリーとも着氷でバランスを崩した。

「とにかく練習を続けていけば出来る、という感触がある。練習でもっと100%の力を出し切ることで、試合の1発に持っていけると思う」と、さらなる練習を誓った。

 GPファイナルでは、とうとうショート1本、フリー2本の計3本に挑戦した。ショートは回転不足判定ではあったが、最高の感触で着氷。ところがフリーは転倒と両足着氷と、力を発揮できなかった。

「(フリーでは)まだ自分が思うようなトリプルアクセルを初戦から出せていないけれど、GPファイナルはフリーで2回できるチャンスなので自分の最高レベルのことに挑戦しようと思いました。2回入れるシミュレーションがもっと必要、というのが今の気持ち。悔しいです」

 思わず「悔しい」という言葉が漏れた。だからこそ、期待していい。逆境こそが彼女のパワーになる。

 これから全日本選手権、そしてソチ五輪と続く。トリプルアクセルがどんなに困難であろうと、浅田は黙って挑戦するだろう。そして長い戦いを終えた時、彼女はどんな苦労話を、そして強い心のさまを打ち明けてくれるのか。23年の集大成の演技は、もうすぐそこまで来ている。

 浅田は常にポジティブな言葉しか口にしない。

Number Web 野口美惠 2013/12/20 10:30
【維持する事の難しさ 女子のトリプルアクセル】



 浅田真央(中京大)のトリプルアクセルへの挑戦が続いている。GPファイナルでは、いよいよショート1本、フリー2本を跳び、「今できる最高のレベルに挑戦した」と本人も自負する。しかし今季、完全な成功はまだない。トリプルアクセルという大きな頂きに向かって、いま浅田はどこまで登ってきたのか、そして五輪での成功は?

 浅田が鮮烈なデビューを果たした2005年12月のグランプリファイナル。15歳になったばかりの少女は軽々とトリプルアクセルを成功させ、名だたるシニア勢を抑えて優勝した。多くのファンは浅田がまだ跳べなかった時代を見たこともないし、彼女にとってトリプルアクセルは何歳になっても変わらず跳べる“べき”もの、と感じてしまうのも無理ないだろう。そこが、彼女を取り巻く誤解のスタートでもある。

 歴代女子で、公式大会でトリプルアクセルを成功させた選手は、88年に初成功させた伊藤みどり以降、トーニャ・ハーディング(米国)、中野友加里、リュドミラ・ネリディナ(ロシア)、そして浅田の5人のみ。まして数年にわたって成功させたのは伊藤と浅田だけだ。女子にとっては、1度でも成功すれば歴史に刻まれ、成長に伴って維持できるようなジャンプではない。

 それでも浅田は、挑戦を続けた。4年前、19歳のバンクーバー五輪ではショート1本、フリー2本を成功。その後ジャンプ全体のフォーム改造に着手したためトリプルアクセルの改善には時間がかったが、今年2月の四大陸選手権では見事に成功させた。

【集大成の今季「何が何でも挑戦」】



 そして五輪シーズン、自身が集大成と決めた今季を迎える。浅田は、 「アクセルに惑わされたくはないんですけれど、最初に決まるとやはり自分も乗ってくるし、自分の強みではある」とトリプルアクセルを跳ぶ意義を話し、初戦から挑戦した。

 スケートアメリカでは、ショートでは認定はされたもののフリーレッグがわずかに氷上をかすめたかマイナス評価に、フリーは転倒した。
「やはりシーズン初戦からトリプルアクセルを挑戦出来る状態で試合に臨んでいるのが、跳べなかった時期とは違います。(フリーでは)あれだけ大きく転倒するとリズムも崩れてしまい、『もう失敗したくない』という気持ちがでたのと、スタミナも切れてしまいました。転倒した後をどうカバーするかが今後の課題です」。と浅田。
佐藤コーチも 「今までは、色んな状況を見てマズイなと思ったら『やめなさい』と言った時期もあった。今は結構良い感じにできているので、数少ない競技会でどんどんやらせたいと思っている」という。昨季までは調子によってトリプルアクセルを回避することもあったが、今季は「何が何でも挑戦」がベースであることを明かした。

 続くNHK杯では、ショート、フリーとも着氷が乱れた。佐藤コーチは「他のジャンプについてはもっとスピードが欲しいが、トリプルアクセルに関しては彼女の体力に一番合ったスピードでいかないと。練習ではだいぶ固まってきているが、やはり本番になると興奮状態で普段よりスピードがあり、わずかに身体が(左に)フラれてしまう」と冷静に分析した。

 本番でのミスの原因が掴めると自信がついたのか、浅田は守りに入るどころか攻めに出た。
「練習での調子は上がっているし、(フリーで)2本入れても大丈夫なんじゃないかな、と感じるようになりました。もっと上のレベルを練習することは楽しいし、試合で決められたらもっと最高だから」と考え、NHK杯に“ショート1本、フリー2本”の最高レベルの組み合わせでの練習を開始したのだ。グランプリファイナルまで、練習日数としてはわずか2週間だった。

【どれほど高い壁かは2人にしか分からない】



 そのグランプリファイナル。ショートでは、片足で着氷に成功したが、フリーは転倒、そして両足着氷となった。無茶な挑戦をしたのでは、という周囲の雰囲気を感じながら、浅田は言葉少なにこう言った。
「(フリーで)1本目で転んで、落ち着いて2発目に行こうと思ったけれど、大きな転倒をしてしまうと次が難しかった。1回目の転倒ってすごく大きくて、体力も奪われてしまいますし、まだまだ(2本を想定した)シミュレーションができていない中での挑戦だったので、練習が必要です」

 フリーで2本への挑戦について、佐藤コーチはこう戦略を明かした。
「決して競技会をないがしろにしている訳ではないが、挑戦してみないと分からない事もあるので今回は取りあえず挑戦してみるという判断をした。本人には、挑戦したい強い気持ちがある。それを取り上げるのはテンションにも影響するので、危険性とのバランスを考えた時に、とりあえず今は何が何でも挑戦する方向。2本入れると、エネルギーを使った、(演技後半が)どうなるかが読めない部分がある。慎重に検討しなければならないと私自身は考えている」

 そして佐藤コーチは、浅田を守るかのように、こう付け加えた。
「女性にとってのトリプルアクセルというのは能力的にとんでもなく難しいものだなというのを痛感させられた」
 トリプルアクセルは皆が思うよりも難しいのだ、というちょっと弱気の言い訳。彼女自身が決して口に出すことができない葛藤を、まるで代弁しているかのようだった。

 浅田が公式大会で初成功させたのは04年のジュニア時代。そこから10シーズン目の今なお跳んでいることが、驚異的なのだ。23歳のいま、計3本入れることがどれほど高い壁かは2人にしか分からない。意欲を支えにする浅田と、淡々と戦略を練る佐藤コーチ。2人は究極の一瞬を目指す。

<了>

野口美恵 2013年12月19日 12:51
【15歳で初優勝し、23歳で連覇―。浅田真央が守り抜いた女王の誇り】



 マリンメッセ福岡で開催されていたGPファイナルで、浅田真央はタイトルを守り、2年連続、4度目の優勝を果たした。今シーズンを最後に引退すると宣言した浅田にとって、この大会はおそらく最後のGPファイナルとなる。

「初めてこの大会に出たのは、まだ15歳の時でした。この7年間、早かったです」

 浅田真央はそう言うと、目元をゆるめた。試合が終わってほっとしたのだろう、もともと優しげな顔の表情が、さらにリラックスして見える。

【「気がついたら私が一番年上」と浅田真央】

 五輪出場の資格年齢にまだ達していなかった2005年12月、浅田真央はトリノ五輪金メダリスト候補だったイリナ・スルツカヤを破って優勝し、関係者たちを大いに慌てさせた。

 だがその8年後、今度は自分が若手たちの挑戦を受ける立場となった。

 GPファイナルに進出したのは浅田と、米国のアシュリー・ワグナー、そして4人のロシアのティーンエイジャーたちだった。中でもエレナ・ラジオノワはまだ14歳でソチ五輪に出場する年齢に達していない。

「この大会では、気がついたら私が一番年上でした」と笑う浅田。いつまでもあどけなさが残っていると思っていたが、こうしてティーンエイジャーたちと並ぶと、存在感も貫禄もまるで違う。いつの間にか落ち着いた、大人の女性になっていた。

【ためらいも見せずに挑んだ2度目の3アクセル】

 SP「ノクターン」は素晴らしい出来だった。

 3アクセルは回転不足の判定だったものの、ジャンプは全体を通して軸が細くきれいに保たれ、勢いがあった。演技を終えると目を潤ませ、会見では「今シーズン最高の出来」と口にした。

 フリーでは、久しぶりに3アクセルに2度挑むことを宣言して、名前が呼ばれてから制限時間の1分間をギリギリまで使ってから、リンクの中央でぴたりと静止して開始のポーズをとった。

 ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」のメロディが始まり、最初の3アクセルに挑むも転倒。2つ目のジャンプはルッツに変えるだろうか――という予想をみごとに裏切り、浅田はためらう様子も見せずに、そのまま2度目の3アクセルを踏みきった。回転不足で着氷が両足になったものの、流れを崩すことはなかった。

【女王の風格を感じさせたステップシークエンス】

 今シーズンずっと勝ち続けてきた浅田真央が本領を発揮したのは、それからだった。3フリップ、2アクセル+3トウループと次々と着実に決めていき、中でもかつて苦手意識のあった3サルコウは、全ジャンプの中でも最もきれいに決まった。

 後半のステップシークエンスは、彼女の見せ場である。ジュニアとシニアのスケーターの違いはここにあると言っても過言ではない。一つ一つの動きが伸びやかで大きく、スピードがありながら美しかった。壮大で豪華なラフマニノフは、子供には滑ることのできない音楽だ。アクセルのミスこそあったが、女王に相応しい貫禄に満ちた演技だった。

「アクセルの失敗は悔しいですけれど、ミスを引きずることなくカバーして残りを滑ることができたんじゃないかなと思います。今回は順位よりも、自分がやりたい演技のレベルを目指して滑りました」

【「マオは憧れの選手」とリプニツカヤ】

 この試合で浅田にどこまで迫るかと注目されていたロシアの15歳、ユリア・リプニツカヤはSP4位からフリーで総合2位まで追い上げてきた。だがそれでも、204.02を得た浅田とは10ポイント以上の差がついていた。

「マオは私から見ても世界でもっとも強い、憧れの選手。特にスケーティングが滑らかなところが素晴らしいと思う」

 リプニツカヤは会見で、浅田をどう思うかと聞かれてそう答えた。

 8年前にセンセーショナルなGPファイナルデビューを飾った15歳の浅田真央は、今度は堂々と女王としてその座を守り、最後のGPファイナルの戦いを終えた。

Number Web 田村明子 2013/12/10 10:30
【「高橋と魂が通じた」 フィギュア屈指の振付師】



 ローリー・ニコルさんはフィギュアスケート界でその名を知らぬ人はいない振付師だ。1996年、当時15歳のミシェル・クワン(米国)に世界女王のタイトルをもたらして名をはせ、これまで数々の名作を作ってきた。来年のソチ五輪では浅田真央(中京大)、高橋大輔、織田信成(ともに関大大学院)の振り付けを担当するなど日本との関係も深い。選手に寄せる思いや振付師の役割などについて聞いた。

【ノクターン、浅田にぴったり】



 ――バンクーバーは「ローリーの五輪」とも言われた。ペアの申雪、趙宏博(中国)、男子のエバン・ライサチェク(米国)に金メダル、女子のジョアニー・ロシェット(カナダ)に銅メダルをもたらした。最近もパトリック・チャン(カナダ、2012年で関係解消)、カロリナ・コストナー(イタリア)、ペアの龐清、●(にんべんに冬)健(中国)ら実力派がズラリ。浅田にも15歳のころから振り付けをしてきた。ソチ五輪のショートプログラム(SP)には06~07年シーズンと同じ、ショパン作曲「ノクターン」を選んだ。

 「私にとって『ノクターン』は甘くて柔らかく、思慮深くて優しい。でも強い曲。まさに真央に対して私が持つイメージそのもの。ぴったりの曲だわ」

 「真央は出会ったころ、無邪気な14歳の女の子そのものだった。この年代は選曲が難しい。あっという間に成長するし、日々変わるから。15歳の真央に『ノクターン』を選んだのは、真央を見るといつもショパンを思い出すから。羽のように氷上を滑る姿……。ショパンは真央のための作曲家だと思う」

 「まだ子供っぽかったから、エキシビションに『オズの魔法使い』も使ったけれど、『ノクターン』で彼女がアーティストとしても成長する手助けをしたかった。23歳の今は『ノクターン』に漂うもの悲しさ、曲の多層性を理解できる」

 「真央はいつも氷との特別な関係を感じる。ほとんど力を加えず、飛ぶように進む。お湯に浸した温かいナイフで冷たいバターを切るように滑らか。真央が滑る音は美しくて、すぐ真央ってわかる。14歳のころからね」

【若手育成、ビジョンが大切】

 ――ニコルさんは元コーチ。出産を機に振付師に専念した。選手が子供のころから振り付けを担当し、何年もかけて1人のスケーターを育ててきた。代表例がクワンだ。

 「彼女に初めて会ったのは12歳のころかな。当時の女子スケーターはただかわいくてキュートなだけ。力強いけれど美しくて繊細、エキゾチックで独立した一人の女性であるスケーターを育てたかった。それがミシェル。15歳で『サロメ』で世界女王になり、いきなりすごいと言われたけれど、その前に3年半の下積みがあった」

 「パトリックもそうね。しかし子供のころはスケートにしか興味がなくて、表現に対し興味を持てるよう仕向けるプログラムを提供してきた。若い選手を担当するときは『こういう選手にしたい』というビジョンを持つことが大切」

【愛情込めプログラム作り】

 ――浅田には05年に出会うが、10年バンクーバー五輪シーズンだけプログラムを作っていない。

 「真央とは距離的に離れ過ぎていたのが残念。と同時に時代が変わった。ミシェルのころはSP、フリー、エキシビションまで担当し、芸術面すべてに責任を持たせてもらえた。今はプログラムごとに振付師を変える。スケーターがとれる時間が減り、振り付けしにくい面もある」

 「私は情が深いタイプだから、ずっと愛情を込めてプログラムを作ってきた選手が離れていくのはつらい。でもビジネスだから仕方ないわね」

【モロゾフコーチに戸惑い】

 ――高橋は今季、初めて振り付けした。昨季も依頼されたが、断っている。高橋を指導するニコライ・モロゾフコーチのスタイルが好きでないからだ。振り付けを無断で変えられるのを、ニコルさんは嫌がる。過去に織田に提供したプログラムに、モロゾフ氏が加えた修正に戸惑ったようだ。

 「テレビを見ていて、あらっていうことはあるわ。自分の振り付けに誇りを持っているから。一部を変えただけで全てが変わることもある。特にステップやペアのリフトとか。すごいショックなの」

 「選手の個性に合わせて曲を選ぶ。リズム、ハーモニーと、選手の技術力、長所、短所を踏まえて、エレメンツをこなせるように振り付ける。私のプログラムは、エッジが作る曲線、エッジの深さ、滑るテンポ、スケートに必要な要素はすべて入っているし、曲や感情に合った体の動かし方、ステップ、ターンもすべてが織り込まれている」

 「芸術と技術のバランスがとれたプログラムが、美しくて得点もとれるいいプログラム。6点満点時代も現ルールでも、このスタイルは変えていない」

 「一生懸命に練習すればできるように作っても、ケガをしたり『どうしてもこのステップからこのジャンプがダメ』だったりするといった理由で修正を頼まれる。それはOKよ。いくらでもアイデアはある。私はコーチだったから分かる。ジャンプが跳べなきゃ、プログラムは元も子もない」

【すべての振付師の夢】



 「ファンやスポンサーとのイベントが多くて練習時間が減ったり、単純に練習せずに振り付けを一部省いて、プログラムを勝手に簡単にしてしまったりする。中には、一つの修正がプログラム全体を変えてしまうこともある。それには耐えられない」

 ――モロゾフコーチがいるのに、どの選手も勝負を賭ける五輪シーズンに高橋が出したオファーは受けた。

 「大輔はすべての振付師の夢。完成されたスケーターを担当するのは、若い選手より楽な面もある一方、ものすごいナーバスになった。既に“伝説”の選手である彼が、私を信じて五輪プログラムを託してくれるのはプレッシャーだった。3月の世界選手権(カナダ)であいさつした程度しか、大輔のことは知らなかったし。要するに、あっ、彼が好きだなって感じたの」

【私も大輔も情熱的だから】

 ――高橋は選曲について全面的に振付師を信頼する。自分で選ぶと好みが偏るからだ。初仕事では、過去の大輔の演技の映像を見て滑りを研究し、いくつか質問した。

 「彼という人間を知りたかったし、スケートで表現したいこと、スケート観を聞いた。そうしたら『何か違うもの。ファンに感謝の気持ちを伝えたい』って応えた。そして、僕をどう思うかと聞いてきた」

 「私は大輔のタンゴとパッションが大好きだった。彼はタンゴの音楽のために生まれてきたって思うわ。でもフリーの4分半もタンゴを滑ってはほしくなかった。ずっと心に秘めていた音楽が、ビートルズの『Come Together』のタンゴ版。大好きで、セミナーで使うことがあったけれど、これに合う選手にずっと出会えなかった」

 「息子が子供のころ着ていたTシャツで、地球が3つに割れていながらピースマークのようにつながっている柄を思い出して、プログラムのイメージが固まった。わかりにくいかしら。でも私も大輔も情熱的だから、この点で魂が通じたと感じる瞬間があった」

【曲は「ファンへの感謝」に合致】



 ――フリーはビートルズの楽曲のメドレーになっている。

 「『Yesterday』は好きなの。エネルギーがあるけれど、大輔が序盤、落ち着いて高難度のジャンプを跳ぶのにいいテンポ。続いて『Come Together』。最後にガチャンと砕けるような音がクールよ。続いて、ビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーティンの『Friends and Lovers』。私にはタンゴっぽい感じがしたの。友達と愛すべき人っていうのも、大輔が望んだ『ファンへの感謝』というテーマに合う」

 「次の『In My Life』は、俳優のショーン・コネリーが歌詞を朗読するCDがあって、『I love you more』というフレーズにピンと来た。これは詩的なプログラムよ。大輔は氷上の詩人でしょ。ファンに『愛してる』と伝えた後は、『Long And Winding Road』。ここまで美しい旅、アップダウンもあり、困難があっても人生。大輔は人生礼賛ができる」

【振付師はチアリーダー】

 ――ニコルさんは試合会場に姿を現すことは少ない。

 「まず私は母であり妻だから。02年のソルトレークシティー五輪は、担当したカナダペアが採点問題に巻き込まれて行ったけれど、そんなのはゴメンよ。バンクーバーは異常事態。五輪の1カ月前、カナダ選手権直前に、チャンのコーチが彼を解雇した。振付師として付き合いの長かった私が、カナダ連盟にコーチを頼まれて引き受けた。米国チームでエバンと合流する予定だったから、大変だった」

 「ソチは多分、行くと思う。振付師はチアリーダーよ。選手たちは、私がそばにいなくても試合で滑ることができるだけの力をつけていると願っているわ」

(聞き手は原真子) 2013/11/16 7:00
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