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フィギュアスケーターの浅田真央さんを応援するブログ
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【絶望を救った初めての「頑張れ」】



 日本中が泣いた。2月20日(日本時間同21日)、ソチ五輪フィギュアスケート女子フリーで浅田真央(24=中京大)が圧巻の演技を披露した。ショートプログラム(SP)で55・51点の16位という最悪スタートから一転、フリーで自己ベスト142・71点の逆襲劇。表彰台にも届かない6位だったが、集大成の五輪は見る者の心に深く刻み込まれた。あの“伝説の4分”に秘められた物語が今、明かされる。

 携帯電話が鳴った時、浅田は一人、選手村の食堂にいた。2月20日、ロシア・ソチの午前11時ごろだった。前日(19日)のSPの失意を引きずりながら、少し早めのランチタイム。電話に手を伸ばし、通話ボタンを押す。日本で見守っていた姉・舞さん(26)の声が、耳に届いた。

 「今まで頑張ってきたんだから、今の気持ちのまま臨むの、もったいないよ!絶対できるから、やらないと駄目!最後だから、頑張りなよ!」

 SPは冒頭のトリプルアクセルの転倒など、全てのジャンプを失敗。団体(8日)の64・07点を下回る55・51点は、11~12年シーズン以降のワーストだった。まさかの16位。「自分でも、終わってみて何も分からない…」。現実を受け入れることも、原因を分析することも容易ではなかった。

 フリーは翌20日。これまでSP上位6人が滑る最終組が定位置だった浅田だが、SP16位のため4組中2組目での滑走になった。SPを滑り終えた9時間後の午前8時35分に、20日の公式練習がスタート。前夜、なかなか寝付けず、浅田は予定の時間に起きられなかった。バスには間に合ったが、ウオーミングアップなど準備が遅れ、練習に少し遅刻した。

 公式練習の浅田は、ミスを連発した。覇気もなく、顔色も悪かった。日本にいた舞さんは、テレビで練習の様子を見た。いつもの妹でないことは明白だった。「これは、話をしないといけない」。SP後、舞さんは無料通信アプリ「LINE」でメッセージを送っている。「既読」にはなったが、返信はない。だから、電話をかけた。ソチとの時差は5時間。日本の午後4時ごろだった。

 10年バンクーバー五輪。舞さんは現地で浅田を応援した。だが、これ以降、会場で応援する回数は激減し、大会期間中も連絡を取らないように努めてきた。家族と触れることで、どこか甘えてしまう妹を知っていたから。だが、ソチでは自ら定めた“ルール”を破った。「何でですかね。今まで“頑張れ”なんて言ったことなかったのに、自然と出ちゃった」と舞さんは振り返った。

 姉との電話を終えた浅田は関係者に漏らした。「ホッとした」。厳しく、優しい舞さんの激励が、絶望から救ってくれた。ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」で臨んだフリー。浅田の心は、軽くなっていた。=続く=


【聞いてないようで“効いていた”言葉】



 2月20日(日本時間同21日)、ソチ五輪フィギュアスケート女子フリー。集大成のリンクに向かう浅田真央(24=中京大)に掛けた言葉は、いつもと同じだった。フリー演技直前、フェンスを挟み、佐藤信夫コーチ(72)は語り掛けた。「あなたは考えられるだけの練習をキチッと全部やってきた。できない理由はない。僕にはできない理由が見つからない。できて当たり前なんだよ」。浅田はしっかりとうなずき、スタートポジションへ滑走した。

 浅田が姉・舞さんから電話を受ける前、佐藤コーチもまた、浅田に魔法をかけていた。フリー当日、絶不調の公式練習を終え、2人は選手村へのバスを会場内のラウンジで待っていた。「何でそんな話をしようと思ったのか。不思議なもんですね。ふと、ですよ」。世界殿堂にも入っている佐藤コーチは、自身の教え子の話を聞かせた。

 80年レークプラシッド五輪。松村充はへんとうが腫れるなどの体調不良に陥りながら、8位に食い込んだ。当時、「ぶっ倒れたら助けてやる。ぶっ倒れるまでやれ!」と鼓舞した“鬼”は34年後、浅田に「何かあったら絶対に行ってあげるから、心配いらないよ」と声を掛けた。「何十億人がテレビで見ていて、土足でリンクに入ったら主催者は怒るでしょうけどね、私は行く。そういう気持ちで伝えた」と同コーチは明かした。

 この時、浅田は相づちを打つこともなく、ずっと黙り込んでいた。視線も合わなかった。佐藤コーチは思った。「知ら~ん顔してるし、絶対に何も聞いとらんわ…」。ソチは同コーチにとって、選手時代を含めて11度目の五輪だったが、実は他の選手の演技を見られる初めてのチャンスだった。SP16位のため、浅田が4組中2組目で滑走することになったから。同コーチは最終組の演技まで堪能し、報道陣に対応するため取材エリアへ。そこで初めて知った。フリーを終えた浅田が、自らこのエピソードを明かしていたことを。

 これまでも浅田は佐藤コーチの話を聞いていないようで、実は聞いていたということが何度もあった。「技術的な話をしても、知らん顔してる。でも、次の日にはちゃんと言った通りに滑っている」と同コーチは笑う。10~11年シーズンから師弟関係を結び、スケーティングの基礎から見直してきた。フリーで見せたノーミスの演技。引き揚げてきた愛弟子に、72歳は言った。「ほら、やっぱりできたじゃない」。浅田は泣きながら、ニッコリと笑った。=続く=


【「こういう子が活躍するのかな」】



 なぜ、そう思ったのか今でも分からない。佐藤信夫コーチ(72)は、浅田真央(24=中京大)と初めて会った時のことを鮮明に覚えている。浅田が小学生時代、小塚崇彦(25=トヨタ自動車)を指導していた同コーチは、クロアチア遠征を共にした。帰国時、乗り継ぎ便を待つ間、母・匡子(きょうこ)さんとじゃれ合う女の子を見て、ふと思った。

 「ああ、こういう子が世界で活躍するのかな」

 当時、佐藤コーチにとって浅田は「浅田舞の妹」という認識でしかなかった。演技を見たこともなかった。あふれる才能に気付いていたわけではないのに、なぜか将来の活躍が予見できたという。浅田が各年代で活躍するたびに思い出した。あの日、空港で見た仲の良い母娘の姿を。

 浅田と佐藤コーチがスケートの話を初めてしたのは、10年バンクーバー五輪の翌3月に行われたトリノ世界選手権。日本チームでの朝食中、同コーチは「僕の年齢になると、スピンしたら目の中に星が飛ぶ」などと話していた。浅田は「私も星が出たことある!」と雑談に参戦。「なんで星が出るんですかね?」と聞かれた同コーチは、「それは練習不足だからだよ」と教えた。

 10年夏、匡子さんから佐藤コーチの元に電話がかかってきた。コーチ就任の打診だった。浅田はバンクーバー五輪で銀メダルを獲得し、世界選手権も制覇。既に輝く実績を残している選手を指導することに、最初は難色を示していた。だが、病魔と闘いながら、何度も頭を下げる匡子さんの熱意に押されて受諾。秋から本格始動した。

 匡子さんは11年12月9日、肝硬変で48歳の若さで死去。匡子さんと家族は約束していた。「これからも自分の夢に向かって、やるべきことをやる」。ソチ五輪のフリー前、浅田は誓っていた。「支えてくれたたくさんの方に、今回はメダルという形で結果は残すことができないけど、残すのは自分の演技」。一番近くで支えてくれた母へ、みんなへ、伝えたいメッセージがあった。

 ラフマニノフの荘厳な調べが会場を包む。開いた両手を体の前でクロスさせ、浅田のフリーが始まった。冒頭に3回転半を完璧に決めると、全ジャンプを着氷する。スパイラルから、万感のフィニッシュへ。最愛の母がいる天を見上げた。“伝説の4分”が終わり、涙があふれ出た。「心配してくれた人もたくさんいる。自分の最高の演技で恩返しができた」――。=終わり=

アネックス 12月18日(木)10時29分配信
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