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フィギュアスケーターの浅田真央さんを応援するブログ
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【「ハーフハーフの思いが強くなった」 現在の心境明かす】



 今季の休養を表明しているフィギュアスケートの浅田真央選手が18日、東京都内で開催された「ロッテ クリスマス・チョコツリー」イベントに、「チョコサンタをイメージした」というキュートな衣装で登場。現役続行の可能性について「ハーフハーフ」と答えていた浅田選手は、現在の心境を聞かれると「よりいっそうハーフハーフの思いが強くなりました」と明かした。

 浅田選手は、以前、「ハーフハーフ」と答えた際のことを「とっさのことだったので、とりあえず言っておこうと思った」と説明。現在はアイスショーのために練習を再開しているといい、「ジャンプの調子が上がってきた」というが、「(前回は)分からないという意味を込めての『ハーフハーフ』。今回は、本当の意味でハーフハーフになってきた」と語った。来季については「まずはアイスショーもありますし、たくさんの方に私のスケートを見ていただけたら」と笑顔で、「オリンピックが終わったとき、私はスケートを続けたいという気持ちがなかった。でも、やっぱりスケートが好きなんだな、と。スケートとともに成長してきた私なので、これからはスケートとともにまだまだ歩んでいこうと思います」と語った。

 この日のイベントは、同社が2013年からクリスマスツリーにチョコレートを飾る新習慣を提案している「チョコツリープロジェクト」の一環。今年はクリスマスを前に昨年の倍となる全国100カ所の幼稚園にチョコツリーキットを届ける予定で、浅田選手は同プロジェクトのスペシャルPRキャラクターとして、自身がプロデュースした「ロッテ クリスマス・チョコツリー」の点灯式を行った。ツリーは品川プリンスホテル(東京都品川区)で25日まで展示される。

 浅田選手は「私がプロデュースしたツリーを皆さんに見ていただきたい」といい、試合のないクリスマスは「小学校6年から全日本選手権に出てるので、それ以来。12年ぶりですね」といい、「すごく楽なリラックスした気持ちなんですが、ショーに出るので今年も滑るんだよって気持ち。あんまり変わらない。スケートとクリスマスは一緒」と語った。プライベートについては「今年は、特に決まってないです。なにもないですね。(理想は)クリスマスパーティー。友達とプレゼント交換したい」と笑顔を見せた。

まんたんウェブ 12月18日(木)18時35分配信


【真央、復帰は「よりハーフ、ハーフ」】



 今季休養しているフィギュアスケートの浅田真央(24)=中京大=が18日、都内で自らプロデュースした「ロッテ クリスマス・チョコツリー」のお披露目・点灯式に参加。真央はスカートのサンタ衣装で登場すると、お菓子やぬいぐるみなどがぶら下がったツリーに「かわいい」と満足げだった。

 21日からは横浜市内で行われるアイスショーに出演。当初の予定を早めて、10月中旬から練習を始めた。「五輪後の会見では『まだ分からない』という意味を込めて言ったんですが、練習を再開してジャンプの調子が上がり、より『ハーフ、ハーフ』の思いが強くなりました」とスケートへの熱意を明かした。

スポーツ報知 12月19日(金)7時8分配信


【現役続行前進?真央スケート断ちで“禁断症状”】



 今季休養中のフィギュアスケート・浅田真央(24=中京大)の“現役続行確率”が「ハーフ・ハーフ」から急上昇している。真央は8月以降スケートリンクから遠ざかっていたが、10月半ばに突如スケート欲が爆発。周囲の“制止”もなんのその、練習を開始した。やはり「スケート断ち」は耐えられなかったようだ。

 真央は18日、都内で「ロッテ クリスマス・チョコツリー」お披露目・点灯式にキュートなミニスカートのサンタクロース姿で出席。自らがプロデュースしたツリーを「テーマは『ハッピースイーツクリスマス』です。とてもかわいいな」とニッコリ紹介した。

 2月のソチ五輪後、現役続行か引退かを問われ「ハーフ・ハーフ」と答えてから約10か月。現在の心境について聞かれると「練習を再開したらジャンプの調子も上がってきて、より一層ハーフ・ハーフの気持ちが強くなってしまいました」と悩ましげに明かした。

 真央によれば、あの時の「ハーフ・ハーフ」は「分からないも含めて。『とりあえず言っとけ!』でした。これからもスケートを続けていきたい気持ちはなかった」のだという。つまり、2月時点での現役続行の確率はゼロも同じ。しかし、それから休養した結果、50%に。明らかな上昇だ。

 これには、完全なる“スケート断ち”が影響している。8月から氷上練習を一切やめた。軽く体を動かすことも考えたが「中途半端な気持ちで滑ると、休養の意味がない。スケートをしたいのかしたくないのか、本当の気持ちが分からなくなる」と親しい関係者にアドバイスされた。これに納得した真央は、大学に行く際もあえてリンクを避けて通った。また私生活でもスケートのことはすべて忘れ、スキューバダイビングや旅行など別の活動を楽しむようにしていた。

 しかし、そうした毎日を「スケートの申し子」が耐えられるわけもなく“禁断症状”が現れた。10月半ば、突如「練習を始める!」と宣言。周囲に「あと2週間休んで11月からにすれば」と言われても「やる!」と押し切った。今では毎日が練習。ジャンプにもキレが戻っている。

 「休んでみて、スケートが好きだ、欠かせないと思った。まだまだスケートとともに歩んでいこうと思っている」と真央は意味深に話した。21日にはアイスショーに出演。観客の前で滑ることで、さらにどんな変化が起こるのか。答えは一つしかないようだ。

東スポWeb 12月19日(金)16時19分配信
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【絶望を救った初めての「頑張れ」】



 日本中が泣いた。2月20日(日本時間同21日)、ソチ五輪フィギュアスケート女子フリーで浅田真央(24=中京大)が圧巻の演技を披露した。ショートプログラム(SP)で55・51点の16位という最悪スタートから一転、フリーで自己ベスト142・71点の逆襲劇。表彰台にも届かない6位だったが、集大成の五輪は見る者の心に深く刻み込まれた。あの“伝説の4分”に秘められた物語が今、明かされる。

 携帯電話が鳴った時、浅田は一人、選手村の食堂にいた。2月20日、ロシア・ソチの午前11時ごろだった。前日(19日)のSPの失意を引きずりながら、少し早めのランチタイム。電話に手を伸ばし、通話ボタンを押す。日本で見守っていた姉・舞さん(26)の声が、耳に届いた。

 「今まで頑張ってきたんだから、今の気持ちのまま臨むの、もったいないよ!絶対できるから、やらないと駄目!最後だから、頑張りなよ!」

 SPは冒頭のトリプルアクセルの転倒など、全てのジャンプを失敗。団体(8日)の64・07点を下回る55・51点は、11~12年シーズン以降のワーストだった。まさかの16位。「自分でも、終わってみて何も分からない…」。現実を受け入れることも、原因を分析することも容易ではなかった。

 フリーは翌20日。これまでSP上位6人が滑る最終組が定位置だった浅田だが、SP16位のため4組中2組目での滑走になった。SPを滑り終えた9時間後の午前8時35分に、20日の公式練習がスタート。前夜、なかなか寝付けず、浅田は予定の時間に起きられなかった。バスには間に合ったが、ウオーミングアップなど準備が遅れ、練習に少し遅刻した。

 公式練習の浅田は、ミスを連発した。覇気もなく、顔色も悪かった。日本にいた舞さんは、テレビで練習の様子を見た。いつもの妹でないことは明白だった。「これは、話をしないといけない」。SP後、舞さんは無料通信アプリ「LINE」でメッセージを送っている。「既読」にはなったが、返信はない。だから、電話をかけた。ソチとの時差は5時間。日本の午後4時ごろだった。

 10年バンクーバー五輪。舞さんは現地で浅田を応援した。だが、これ以降、会場で応援する回数は激減し、大会期間中も連絡を取らないように努めてきた。家族と触れることで、どこか甘えてしまう妹を知っていたから。だが、ソチでは自ら定めた“ルール”を破った。「何でですかね。今まで“頑張れ”なんて言ったことなかったのに、自然と出ちゃった」と舞さんは振り返った。

 姉との電話を終えた浅田は関係者に漏らした。「ホッとした」。厳しく、優しい舞さんの激励が、絶望から救ってくれた。ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」で臨んだフリー。浅田の心は、軽くなっていた。=続く=


【聞いてないようで“効いていた”言葉】



 2月20日(日本時間同21日)、ソチ五輪フィギュアスケート女子フリー。集大成のリンクに向かう浅田真央(24=中京大)に掛けた言葉は、いつもと同じだった。フリー演技直前、フェンスを挟み、佐藤信夫コーチ(72)は語り掛けた。「あなたは考えられるだけの練習をキチッと全部やってきた。できない理由はない。僕にはできない理由が見つからない。できて当たり前なんだよ」。浅田はしっかりとうなずき、スタートポジションへ滑走した。

 浅田が姉・舞さんから電話を受ける前、佐藤コーチもまた、浅田に魔法をかけていた。フリー当日、絶不調の公式練習を終え、2人は選手村へのバスを会場内のラウンジで待っていた。「何でそんな話をしようと思ったのか。不思議なもんですね。ふと、ですよ」。世界殿堂にも入っている佐藤コーチは、自身の教え子の話を聞かせた。

 80年レークプラシッド五輪。松村充はへんとうが腫れるなどの体調不良に陥りながら、8位に食い込んだ。当時、「ぶっ倒れたら助けてやる。ぶっ倒れるまでやれ!」と鼓舞した“鬼”は34年後、浅田に「何かあったら絶対に行ってあげるから、心配いらないよ」と声を掛けた。「何十億人がテレビで見ていて、土足でリンクに入ったら主催者は怒るでしょうけどね、私は行く。そういう気持ちで伝えた」と同コーチは明かした。

 この時、浅田は相づちを打つこともなく、ずっと黙り込んでいた。視線も合わなかった。佐藤コーチは思った。「知ら~ん顔してるし、絶対に何も聞いとらんわ…」。ソチは同コーチにとって、選手時代を含めて11度目の五輪だったが、実は他の選手の演技を見られる初めてのチャンスだった。SP16位のため、浅田が4組中2組目で滑走することになったから。同コーチは最終組の演技まで堪能し、報道陣に対応するため取材エリアへ。そこで初めて知った。フリーを終えた浅田が、自らこのエピソードを明かしていたことを。

 これまでも浅田は佐藤コーチの話を聞いていないようで、実は聞いていたということが何度もあった。「技術的な話をしても、知らん顔してる。でも、次の日にはちゃんと言った通りに滑っている」と同コーチは笑う。10~11年シーズンから師弟関係を結び、スケーティングの基礎から見直してきた。フリーで見せたノーミスの演技。引き揚げてきた愛弟子に、72歳は言った。「ほら、やっぱりできたじゃない」。浅田は泣きながら、ニッコリと笑った。=続く=


【「こういう子が活躍するのかな」】



 なぜ、そう思ったのか今でも分からない。佐藤信夫コーチ(72)は、浅田真央(24=中京大)と初めて会った時のことを鮮明に覚えている。浅田が小学生時代、小塚崇彦(25=トヨタ自動車)を指導していた同コーチは、クロアチア遠征を共にした。帰国時、乗り継ぎ便を待つ間、母・匡子(きょうこ)さんとじゃれ合う女の子を見て、ふと思った。

 「ああ、こういう子が世界で活躍するのかな」

 当時、佐藤コーチにとって浅田は「浅田舞の妹」という認識でしかなかった。演技を見たこともなかった。あふれる才能に気付いていたわけではないのに、なぜか将来の活躍が予見できたという。浅田が各年代で活躍するたびに思い出した。あの日、空港で見た仲の良い母娘の姿を。

 浅田と佐藤コーチがスケートの話を初めてしたのは、10年バンクーバー五輪の翌3月に行われたトリノ世界選手権。日本チームでの朝食中、同コーチは「僕の年齢になると、スピンしたら目の中に星が飛ぶ」などと話していた。浅田は「私も星が出たことある!」と雑談に参戦。「なんで星が出るんですかね?」と聞かれた同コーチは、「それは練習不足だからだよ」と教えた。

 10年夏、匡子さんから佐藤コーチの元に電話がかかってきた。コーチ就任の打診だった。浅田はバンクーバー五輪で銀メダルを獲得し、世界選手権も制覇。既に輝く実績を残している選手を指導することに、最初は難色を示していた。だが、病魔と闘いながら、何度も頭を下げる匡子さんの熱意に押されて受諾。秋から本格始動した。

 匡子さんは11年12月9日、肝硬変で48歳の若さで死去。匡子さんと家族は約束していた。「これからも自分の夢に向かって、やるべきことをやる」。ソチ五輪のフリー前、浅田は誓っていた。「支えてくれたたくさんの方に、今回はメダルという形で結果は残すことができないけど、残すのは自分の演技」。一番近くで支えてくれた母へ、みんなへ、伝えたいメッセージがあった。

 ラフマニノフの荘厳な調べが会場を包む。開いた両手を体の前でクロスさせ、浅田のフリーが始まった。冒頭に3回転半を完璧に決めると、全ジャンプを着氷する。スパイラルから、万感のフィニッシュへ。最愛の母がいる天を見上げた。“伝説の4分”が終わり、涙があふれ出た。「心配してくれた人もたくさんいる。自分の最高の演技で恩返しができた」――。=終わり=

アネックス 12月18日(木)10時29分配信
【鮮烈だった15歳浅田真央の「くるみ割り人形」 87日不足で五輪出られず…】



 2005年12月17日。15歳のあどけない少女が舞う「くるみ割り人形」に観客はくぎ付けになった。

 フィギュアスケートの浅田真央がグランプリ(GP)ファイナルに初出場した。ショートプログラム(SP)で首位の浅田はフリーでも高難度のトリプルアクセルを成功させ、合計189.62点で初優勝。会場には地鳴りのような大歓声が響いた。世界女王のイリーナ・スルツカヤ(ロシア)を抑えての快挙だった。

 シニア参戦初年度で、GPファイナルを制覇。しかし、直後の06年2月に行われたトリノ五輪には年齢制限のため出場できなかった。浅田は9月25日生まれ。当時、五輪への出場は、国際スケート連盟(ISU)が「開催前年の6月30日までに15歳に達していること」と定めており、わずか87日足りなかった。本人は「少しは出たいという気持ちもあるけど(2010年)バンクーバー(五輪)があるので、そこに気持ちを向けられればいい」と健気な“乙女心”をのぞかせたが、同情論が噴出した。

 フィギュアの年齢制限は、子供の成長を妨げる過度な練習や精神的重圧を避けるため、医学的見地から設けられた。若いスター選手のプロ転向に歯止めをかけたいという裏事情もあった。

 4年後のバンクーバー五輪。浅田は、ライバルのキム・ヨナ(韓国)に敗れ、銀メダルに終わった。次のソチ五輪ではメダルに届かなかった。それでも、フリーで最高の演技を披露し「4年間のすべてを出せた」と達成感をみなぎらせた。引退をちらつかせることもあったが、今季は休養宣言。来季以降については「ハーフハーフ(半々)」「時の流れに任せればいいのかな」と明言を避ける。

 8年前、トリノの銀盤に15歳の真央ちゃんが舞っていたら…。かなわぬことと分かっていても、多くの日本人がそんな夢想を繰り返してきた。=敬称略 (神)

産経新聞 12月6日(土)9時25分配信
【「マット、今でも手放せない」 浅田真央が祝福に駆けつける】







 エアウィーヴ設立10周年を記念した感謝の会が10日、東京都内のホテルで開かれ、2014年のマスターズで優勝したプロゴルファーのバッバ・ワトソン選手やフィギュアスケートの浅田真央選手がお祝いに駆けつけた。

 ワトソン選手と浅田選手はともに同社が支援するアスリート。ワトソン選手は「高岡本州(もとくに)会長と会食した時に、彼がレストランのテーブルにエアウィーヴのマットを広げてプレゼンしたんだ」と思い出を語った。「今日は大学に行ってから来ました」と切り出した浅田選手は「エアウィーヴのマットと出合ったのは6年前。最初に寝てみた時は不思議な感覚、それ以来手放せない。私自身、すごく腰が痛かったのが、楽になり、睡眠がすっきり、目覚めも良くなった。寝心地が良いのが大好き」と話した。

 2004年に高岡会長が叔父の釣り糸・漁網装置メーカーを引き継ぎ、樹脂を素材としたマットレスパッドを作って販売したところから会社はスタートした。しかし、立ち上げ当初は低反発マットレスが主流の中で、高反発製品であるエアウィーヴは売れなかった。高岡会長は「浅田選手が遠征にエアウィーヴを持参していることが話題になって販売が伸び、10周年を迎えることができた」と10年間を振り返った。

朝日新聞デジタル 2014年11月11日
【浅田舞さん 来春結婚報道を否定「何も決まっていません」】

 プロフィギュアスケーターでスポーツキャスターの浅田舞さん(26)が14日、自身のツイッターを更新。一部で報じられたヒップホップユニット「シクラメン」のリーダー・DEppa(31)との結婚について「何も決まっていません」と言及。来春ゴールインとした報道を否定した。

 「朝起きてニュースを見て、届いているたくさんのメールを見て、ただただビックリしています」と驚いた様子。

 「何も決まっていません」と来春結婚とした一部報道を否定し「自分が結婚するニュースを友達からの連絡で知る日が来るとは思いませんでした」と終始、驚きを隠せなかった。

 一部報道によると、舞さんはDEppaと出会う以前からシクラメンのファンで、2012年春、イベント共演をきっかけに同年夏頃から交際をスタート。2人は今年の9月頃、来春にも結婚することを報告した、としている。

スポニチアネックス 11月14日(金)15時1分配信


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今朝のスポーツ新聞を見てびっくりしたけど、
舞ちゃんのツイッターを見たら否定されていました。
連日、事実ではない報道が出るのは何なんですかね?
合コン報道よりは信じてしまいそうな内容ですが。
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